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滋賀県~近江国の巻 その3

■湖南地域■
○近江木綿~おおみもめん
 江戸期から大正期まで甲賀郡甲西町周辺では農家が綿を栽培、糸に紡いで紺屋で藍に染め、日常着か座布団地などを織っていた。「機を織れない女は嫁にゆけない」と言われた。しかし時代の近代化は、紡績の安価な綿製品の進出でその慣習は廃れた。それでも昭和20年代は郡内に7軒の紺屋があったという。
 現在は甲西町下田(現・湖南市)に、明和年間(1764~72)初代政平が京都で修業して創業した紺善の六代目植西恒夫氏が、藍染織物を「近江木綿」の名称で伝統を継承している。
 
 
○本藍染~ほんあいそめ
 野洲郡野洲町(現・野洲市)に、三ツ坂紺九とも呼ばれた地藍の蒅(すくも)で灰汁建てする藍染紺屋・紺九がある。明治3年に初代九蔵は近江八幡の紺又で修業後に独立。2代卯一氏は県無形文化財指定になり、現在の3代森義男氏は本藍染で平成8年に国選定保存技術に指定された。昭和20年には6軒の紺屋が野洲にあり、紺九では本藍染の野洲木綿を戦後も販売していた。今日では唯一の紺屋となり、依頼され糸を染め、文化財修復に必要な襖紙、障子紙を染める特異な存在でしられる。
 
 
○綴織~つづれおり
 県下には西陣織に連なるものが多い。守山(現・守山市)の綴織は清原織物の初代が明治元年に綴織の本場・京都市内の御室で創業、大正時代に守山に転居して来た。この綴織は今では近江の工芸品になっている。綴機に掛けた経糸に緯糸を通し手の爪を櫛状にして緯糸を掻いて糸を詰めるので、別名爪織(つめおり)と呼ばれる。袱紗、打敷、帯、袈裟、袋物などを製織している。
 
 
○下田の金箔~しもだのきんぱく
 甲賀郡甲西町下田(現・湖南市)に大正7年に金箔業を持込んだ人は、明治38年に金箔業の本場・石川県金沢で金箔屋を開業し、一時は京都で箔屋を営んだ後に妻の出身地・守山へ店を移した今越清次郎(1883~1974)。戦後も下田の金箔として製造、県無形文化財に指定されていた。その後、植西又一郎氏が継承したが昭和50年代に途絶えた。
 
 
○桐生の金銀糸~きりゅうのきんぎんし
 織物に使う金銀糸製造を大津市桐生地区の農家が兼業で始めた。戦後の一時期は隆盛だったが、現在はマルサク㈱ほか数軒が金銀箔紙及び金銀蒸着フィルムをスリッターで裁断、撚りを掛けて金銀糸にしている。
 
 
○大津のモール糸~おおつのモールし
 欧州、インド、中東の織物に装飾糸として織り込むメタリックヤーン(貴金属線)はモール糸と称され莫臥爾(もうる)の織物に織り込まれ、フランスではラメと呼ばれる織物がある。
 日本で最初にモール糸を製作したのは大津市の山口善造氏(屋号箔善・当時、山口特殊電線㈱社長)。欧州に渡って研究、完成までに50年の歳月をかけて、戦後に国内で流行したラメステラ織に貢献したが、現在は合成樹脂フィルムの金属真空蒸着の糸に取って替られ、本製のモール糸は日本から姿を消した。
 
 
○草木染手組み組紐~くさきぞめてぐみくみひも
 組紐は三重県上野(現・伊賀市)・京都に次いでは大津組紐が有名。伝聞では内記某なる膳所藩の侍が、内記組(別名・ガタ打ち)という組み方を考案。袋状に紐を組む特徴がある。草木染手組み組紐は太田藤三郎氏が戦後復興させたもので、同家には文化12年(1815)の墨書がある内記台が残っている。明治40年代から盛んになった大津組紐は、内記台、丸台、角台、綾竹台で帯締め、羽織紐ほか和装向け組紐の草木染製品を㈲藤三郎紐で製作している。
 
 
○日枝紬~ひえつむぎ
 天台宗総本山延暦寺のある比叡山の古名にちなむ日枝を紬の名称にしたという。戦後、大津市坂本で農業の道を説いた松井浄蓮氏の子女・京さんが郡上八幡の宗広力三氏のもとで修業し紬を創作、父浄蓮氏が日枝紬と名付けた。春繭の生引きと塩蔵繭をいずれも座繰り糸にして草木で染め、手織りで織る。妹の靖子さんと始めた清楚な着物地。
 
 
○草津の青花~くさつのあおばな
 草津市下笠・山田・木の川地区で栽培する露草(鴨頭草・つきくさ)学名・オオボウシバナは開花した7月中旬に花弁を摘み→篩(ふるい)にかけ→手揉み→手搾りで青花液を採取→液を刷毛で薄く美濃紙に塗り重ね→天日乾燥する。美濃紙に液を塗布→塗布と天日乾しを十数回繰り返して、青花紙に仕上げる。友禅染や染色模様その他の下絵に、青花紙を水に浸して青花液を皿に取り筆で描くと標色の下絵が浮き上がる。これに糊糸目→彩色して友禅模様を染め出し水洗いするとる、青花液のみが水に溶けて流れる。伝統的な模様染に欠かせない大切な裏方を果たしてくれる青花紙(藍紙)の伝承地はここ、草津のみである。
 
 
 
■湖西地域■
○高島綿縮~たかしまめんちぢみ
 高島郡高島町・新旭町(現・高島市)は湖西でただ一か所の綿織物産地。高島織物工業組合・高島晒協同組合のもとで伝統の高島綿縮を伝承しながら、近代設備を導入して綿クレープ、綿布類、帆布、ベルト基布、タイヤコードなど、綿繊維を主にした近代織物産地を形成している。綿クレープでは全国でトップの生産量を誇り、和装ゆかた地などにも向けられる。この産地の原点は強撚手織りの綿縮にある。江戸中期の天明の頃(1781~89)から京都市場へ出荷が始まっている。「高島しぐれ」という特殊な多湿気象と安曇川の水源が高島式強撚加工に適したのか、高島綿縮は名をはせ、現在は高島クレープの商品名で知られている。
 
 
 ほかに朽木村(現・高島市)の麻布は絶えているが、資料展示館があり、昔日を偲ぶことができる。
 
 
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